静けさが訪れた。

ボマーたちの語りが終わった瞬間、どこからともなく風が吹き抜けた。ネオンの灯りがかすかに揺らぎ、遠くで微かに何かが軋むような音がした。

私はその音の方に、なぜか惹かれるように歩き出していた。ボマーもカシミールもイーヴルも、それを止めはしなかった。まるで「行くべき場所を見つけたな」とでも言いたげな視線を背に感じながら、私はゆっくりと街の北側、誰も立ち入らないという廃れた一角へと足を向けていた。

その場所には名前がない。誰も語ろうとしない。
ただ、街の住人たちはそこを「沈黙の区画(サイレント・グラウンド)」と呼び、避けて通るのだった。

五線譜のような道路も、音符の踊る街灯も、そこでは止まっていた。
音がない。リズムがない。すべての音楽が息を潜めている――まるで「音楽が拒絶された」空間。

それでも、私は歩みを止めなかった。
まるで心のどこかで、この場所に“誰か”がいることを知っていたように。

そして――

その“誰か”の声が、静寂の中で私を呼んだ。

それは歌声だった。
言葉にならない旋律、でも確かに歌だった。

震えるように、切なげに、空気のひだを揺らして、私の心に直接触れてくる。

その声に導かれるまま、私は瓦礫の残る小さな広場に出た。中央にはひび割れたステージの跡があり、そこにひとり、フードをかぶった猫が佇んでいた。

彼女は背を向けたまま、静かに歌っていた。

私が息を飲むと、その歌がすっと止まる。

「……誰?」私は問いかけたつもりだったが、声になっていたのかどうかすらわからない。

猫はゆっくりと振り向いた。
フードの下から覗いた瞳は、深い夜を映したように澄んでいて、それでいてどこか哀しみを湛えていた。

「あなたは……」

彼女は、私の問いを遮るように、小さな声で言った。

「この場所は、かつて音楽が崩れた場所――私が音を裏切った場所。」

その言葉に、心がざわついた。どこかで聞いたことのある声。
いや――どこかで、私が知っていた声だった。

「あなたの歌……前にも、どこかで……」

「あなたはまだ思い出していないのね」
彼女は少し微笑んだ。それは、あまりにも優しくて、少し寂しくて――どこか、自分自身を見るようだった。

「でも、もうすぐわかるわ。あなたは、私だから」

私はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

けれど、彼女の声を聴いた瞬間から、私の中で何かがほどけていくのを感じていた。
心の奥で固く閉ざしていた扉が、静かに開いていく感覚。

彼女の名前を、私は口にした。

「……クロウリー?」

私の口からこぼれ落ちたその名に、空気がぴんと張りつめた。

フードを下ろした彼女の銀白の毛並みが、月光を受けてやわらかく揺れる。
その瞳は深く、静かに燃える青。名前を呼ばれた彼女は、わずかにまぶたを伏せて、ため息のように応じた。

「……その名前を、また聞くことになるとは思わなかったわ。」

私の後ろで、何かがかすかに動いた。

「……おいおい、冗談だろ」

ボマーの声だった。
普段の陽気さはそこにはなかった。彼はゆっくりと歩を進めながら、クロウリーの姿をまっすぐ見据えていた。

その目に浮かんだのは、驚きでも懐かしさでもない。
――警戒。そして、ためらい。

「……クロウリー。何年ぶりだにゃ」

「数えていないわ」
クロウリーの声は淡々としていた。けれど、その言葉の奥に、かすかな棘があった。

イーヴルが肩にかけていたスティックバッグをそっと地面に下ろす。
普段は飄々としている彼の目もまた、今は硬い。

「まさか、今さら顔を出すとは思わなかったにゃん……」

「そうね。私自身、来るつもりはなかった。でも、なぜか足が勝手に向いてしまったの。」

クロウリーは一歩、二歩と近づいてくる。
その足取りは静かで、けれど一歩ごとに、何かが軋むような空気が流れていく。

カシミールは何も言わないまま、その場に立っていた。
ギターの弦をひとつだけ――低く、鋭く弾く。その音は短く、鋭く、刺さるように空気を裂いた。

「音を残して、言葉もなく去ったヤツが、何のつもりにゃ」

その声には、怒りも、悲しみも、冷笑もなかった。
ただ、乾いた事実だけが淡々と響いていた。

クロウリーは、カシミールの視線から目をそらさなかった。

「……あのとき、言葉にできなかった。
 でも、私には…歌うことすら、怖くなっていたの。」

彼女の声がかすかに震えた。

「音楽が、私を拒んだ気がした。
 何を歌っても、嘘みたいで――
 あの夜、私はもう誰の声にもなれないと思ったの。」

しばらくの沈黙が流れた。
ボマーがサングラスをずらし、目元を軽くこする。何かを言いかけて、やめた。

「……言葉にできなかったのは、こっちも同じにゃ」
イーヴルがつぶやくように言った。「ただ、あのまま終わっていいとは、思ってなかった。」

カシミールは目を伏せ、弦を撫でた。

「終わったことにしてしまったのは、俺たちかもしれないにゃ……」

クロウリーはふっと微笑んだ。
けれど、それは心からのものではなかった。まだ、何かが残っている。まだ、すべてを許したわけではない。

「……わだかまりは、たぶん消えてない。
 でも、音は……私の中で、まだ鳴ってる。」

その言葉に、私は胸の奥がざわついた。
彼女の目が、一瞬だけ、私を見た気がした――けれどそれもすぐに過ぎ去った。

彼女と、ボマーたちの間に流れる沈黙は、過去の重さと未完の旋律そのものだった。
でも、その空白の中に、わずかな「再演」の気配があった。

誰もが、それを言葉にはできなかった。

けれど、風がまた吹き、ネオンがまた揺れたとき――
あのステージに、かつての4人が並ぶ日が、来るような気がした。


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